現役・OB便り(ver.1)

初回は、陸豊(機関紙)の第2号、H2.5.20発刊記事より抜粋しております。

<北摂駅伝で優勝、部員は15人足らず>

生島紘一氏(高校10期)

昭和30年当時の国道176号線での駅伝風景(豊中大門公園近く 徳田氏→生島氏中継)真空管の表示あり

私は1955年から1958年に高校生活を送った。1951年に対日講和条約・安保条約が締結され、1953年に朝鮮戦争が終り、

日本の戦後の混乱期が過ぎ戦後の復興が本格化したとは言え、当時の電話・テレビは一部の家庭にあった程度で、現在

の豊かな社会には程遠い時代であった。

我が陸上部は、1〜3年生を入れて15名に満たない男子のみのメンバーから成立っていた。その中で活動の中心は1・2年

生であり、3年になると大学受験準備のために活動を中止する不文律もあった。

我が校においては、理由は定かでないが、全校生徒が珍しく燃えクラブ員以外の参加を得て、2チーム12名編成して顧問

の馬場先生を先頭に大会に挑戦した。当時、国道176号線の交通量は少なく、何らの交通規制もなく当日は自転車による

伴走も自由に行われました。また沿道には日頃受けたことのない黄色い声援もあり、そのためか豊高チームは総合2位と6位

にはいり、高校の部では優勝と3位となり大いに面目を施した。(以下略)

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